当社の歴史

思い出すままに・・・ 顧みれば、昭和29年の清掃法施行の前年、昭和28年より、汲み取り事業に志し、全日本清掃協議会に入会し山梨は故 内藤弥太郎さんの下に結集し、直営化断固阻止に全国のバキューム業者がバキュームカーに乗り、東京国会議事堂を目指して夜中の闇夜の中を出発し、白々と明ける朝到着した事、大勝利の喜びを勝ち取った感激、今も猶、鮮明に心に焼き付いて感慨無量でございます※この時代はまだ首都高速道路はなかったころ・中央自動車道路も完備されていなかった。
桶25本を自動三輪車に乗せて、当時し尿(下肥・しもごい)は大切な肥料として重宝され農家が各家庭より収集し、一年間米一俵とか、ジャガイモ30貫とか、つけ大根二樽、とか決めて各家庭のし尿を運んでいました。昭和28年頃になると、だんだん農家の方が担ぎ出しの遠いところや、小さな便所(溜めが小さい)は、行かなくなり・・・・・・・困った家庭では、私に『叔父さんお金を払ってもよいから汲み取ってください 』という家庭がだんだん増えてきまして、一桶 10円でこの仕事を天職と希望に燃えて20歳前半に身を投じたのであります。(この時代は周りの方から白い目で見られたこともあったそうです。)雨の日も風の日も、困っている家庭の要望に応えて、規模も拡大してきました。農家の方は道端に下肥溜(貯留槽)[こえだめ]を作って、私どもの収集したし尿をお願いし今までの得意先の家庭の契約を断り、私共の仕事に協力していただきました。秋ともなれば農家は、麦蒔き時季ともなると、田んぼの片隅に半台と言って、樽の底の浅い大きい木で作った入れ物に、し尿を運んでくださいと頼まれるもので1台(桶25本)を運んで200円・300円と運送料を頂き、毎日毎日充実した事業を積み上げて来た時、大阪まで行くとバキュームと言ってし尿汲み取り車が新車では値段が高いので中古車でも10年位は、使えますと言う情報に、当時35万を風呂敷に包んで腹に巻き大阪の森田特殊自動車(現・モリタエコノス)に行き購入してきたのが、バキューム車の山梨郡内地区において初めてでありました。農家の方へ行きますと杖をついた年寄りや、大勢の人たちが物珍しげに『これが東京で使っていると言う汲み取り車ですか?』、あのホースの中を通ってタンクに入るのですか?等々、話の種が次から次へと噂され事業が発展してきました。 昭和29年清掃法の施行により、し尿処理は市町村長の固有事務となりましたが、し尿処理施設はなく、処理施設に困窮した市町村は止む無く許可業者をつくり、その業者に全責任を押し付けて自分の責務から逃避してしまったのです。
こうした、し尿処理は無責任と無秩序の中で危機的大混乱が起こったのです。業者は筆舌に儘くせない程の苦難を克服し、私財を投じて行政に協力しながら社会の環境衛生向上に貢献して来たのであります。許可業者の存在はこのような歴史的経緯があるからであります。今後は国の施策による下水道化で企業は破局的危機に追い込まれる中で我々の権利を主張する合特法を組合員一丸となって最後の勝利を掴むまで団結していきます。

当社所属の全国環境整備事業協同組合連合会 の設立30周年記念誌 に掲載より

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